DV加害者がDVと自分に向き合うブログ

ある日突然DV加害者となったkuroが、DVと自分に向き合い感じたことを、当事者の立場から綴ります。

ふと思ったこと

 通勤中の電車の中で読んだニュースの中に、生まれたばかりの赤ちゃんの記事があった。

 その記事を読んでふと娘が産まれた瞬間を思い出した。

 私は運良く出産に立ち会えて、生まれたばかりの娘を抱き上げることが出来た。

 元妻の破水から出産まで、ずっとそばに居ることが出来たのに、苦しむ元妻を見て、恥ずかしくて真剣に励ますことが出来ず、チャラけた私。

 なんて失礼なことをしたんだろうととても反省した。

 娘が産まれた瞬間、目に熱いものがこみ上げたが一生懸命こらえてしまった。

 あの時何で泣けなかったんだろう。

 今だったら思いっきり泣いて喜べるのに。

 今はその理由がよくわかったからこそ、過去が悔やまれる。

 これからは思いっきり笑って、思いっきり泣いて、思いっきり楽しもう。

 いつかそれを娘と共有することが出来たら良いなと本気で思う。

 無性に溢れてくるこの気持ち。

 娘に会いたいです。



 他で家庭築いて子供が出来れば、元妻との娘への気持ちは薄れるとか、もう忘れろとか真剣な顔で言う人達。

 それは私が振るってしまった暴力と何が違うんだろう。

 たまらなく寂しくて悲しい。

 でも、クヨクヨ考えてもしょうがない。

 まず大切なのは、自分に素直で居続けること。

とにかく、前向いて明るく楽しく毎日を生きて、出来ることを1つ1つ丁寧に積み重ねよう。

最近思うこと。

 前回の更新からずいぶん時間が経ってしまいました。

 先日元妻からの電話があったので、少しずつ書き進めていたこの記事より先に、そのお話を上げてしまいましたので、色々前後することがあるかもしれません。

 最近も相変わらずの充実した生活を送っている私ですが、ここ最近色々と考えたことがあったので書いてみようと思います。




仕事もプライベートも順調


 現在の仕事は拘束時間が長く、休みが削られる事はしばしば。

 始めて貰った給料も、前職の半分程度しかもらえず、未だ前職の貯金を食いつぶす生活をしています。

 そんな普通に考えたら苦痛で仕方ないような状況でも、気持ちを前向きにするために、あえて貯金を使い込んでみるなど、私自身はそれを苦痛に感じることは無く、前向きに楽しみながら仕事に取り組めています。

 今月になってようやく自分の力も花開いたようで、中々良い実績を維持できています。

 しかも仕事だけに囚われることなく、プライベートでも、なかなか充実した日々を送っており、文字通り公私共に充実した日々を送っております。

 たまにふと襲ってくる不安な気持ちも、だんだんと落ち着いてきました。

 まだまだこの先どうなるかわかりませんが、最悪今の職を失っても、生きて行くには困らない程度にお金を稼ぐことは出来るだろうと楽観できていることが、今の職での良い結果を招いているんだと思っています。




母子で生活する苦悩


 私はこれまで、自己の気付きや変化のために、自身のより内面に内面に意識が向いていることが多かったように感じます。

 その甲斐もあってか、日々の生活を前向きに楽しく送れていたのですが、最近になって、自分に関わる周囲の人を含めた自身のあり方について考えるようになってきました。

 そうやって考えをすすめるうちに、元妻や娘を始めとする母子が抱える葛藤や苦悩について思い至るようになりました。

 そこで強く感じた事は、問題を抱えた母が母子で生活しながら抱えた困難を解決することは、単身の私よりもはるかに困難なのかもしれないと言うことです。

 私が学びを続けさせて貰っている場には、もちろんDVの被害者とされた女性もおり、私の元妻と娘に歳が近い方がおられます。

 それ以外にも個人的な繋がりでもDV被害者とされた、歳が近い母子と関わらせて貰っているのですが、そんな方達と対話を重ねていくうちに感じる事は、母子で生活してるが故の葛藤や、生活が一個人でない故に自己完結の考え方に至りにくいのだろうと言うことです。

 子供を育てながら生活を成り立たせるのは私には想像も出来ない苦労でしょうし、葛藤もあると思います。

 私は単身で身軽な立場になれたからこそ早く気付きを得られ、多少なりとも変化するきっかけを得られたのだと思います。

 さらに気がついたことは、私は、母子のそのような葛藤や苦しみに気付きながらも、目を背けていた事実です。

 私はそれに気付いたとき、とても残酷な事をしていたんだと、一度は自己を責める気持ちになってしまい、かなり落ち込みました。

 ただ、見方を変えれば、その当時の私にはどうしようも出来ない事に心苦しめること無く、葛藤がより自己の内面に向かったことも、気付きを早めてくれた結果なんだと感じています。

 もしかしたら自己が変化していく過程おいて、周囲の事や自分以外の者への配慮や思い至りがなるなる時期があるのかもしれません。

 私は変化していく過程の中で、離婚は私が起こした問題であると感じながらも、「自分だけが起こした問題では無いのだから、自分ばかりを責めるのは辞めよう」という変化のために心がけていた意識が、その事実から目を背ける事に繋がっていたんだと思います。

 このことは、先日妻から掛かってきた一方的な電話の内容でも、さらに気付かされました。

 私を責める数々の言葉の中に、「相手からしたら、確かにそう捉えられても仕方が無いな。」なんて思うことが多々ありました。

 でも1年以上ぶりに掛かってきた元妻の電話から、そんな元妻の心情に思いを寄せることが出来たことが嬉しくてたまりませんでした。

 こうやって気付きを与えてくれた元妻に対して、あらためて心から感謝の気持ちを持つことができました。



元妻への働きかけ


 先日妻から電話が掛かってきたのも、私から少し働きかけをしていたからだと思います。

 恐らく、住んでいるであろう住所や連絡先はわかってしまっているんですが、もちろん私から訪ねることはしていません。

 そんな私が現在出来ることと言えば、必要な連絡事項だけでも連絡をとれるようにして欲しいと、共通の友人を介してや、元妻の親族に働きかける事くらいでした。

 正直、中々動いてくれない元妻の親族に動いて貰うようにかなり強いことも言ってしまった節はあります。

 言ってみたら私自身がコントロールを利用してしまったことにはなりますが、意図した上で目的がはっきりとしたコントロールは必要なのかなとも思えています。

 そうやって働きかけている私の最終的な目標は、未だ気付きを得られず葛藤を抱えているであろう元妻のケアをすることです。

 それは決して元妻に未練があると言うことでは無く、元妻が抱えたその問題を娘に連鎖する事が無いようにしたいという思いからであり、娘が万が一葛藤を抱えるようなことがあれば、そこは私がしっかりとケアできるような存在になりたいからです。

 電話の内容からは、未だ誰かにコントロールを受ける元妻が見え隠れし、子の福祉への理解の乏しさや、自己の価値観を子供に投影をしてしまっている節が感じられました。

 道のりは長いのかもしれませんが、何かしらの手だてを考えてみようと思います。



いま、思うこと


 当時を振り返ってみると、当時はかなりの大騒ぎでしたし、私は大金を失い、その大金は元妻と娘に渡ることは無かったです。

 あの一件で家族の人生が大きく変化したんだなぁとしみじみ思います。

 この大変な状況を超えたことで、家族全員が本当に楽になることが出来て、前向きに生きていける結果ならばそれも意味があるんでしょうが、ただ離婚するだけでは何の解決にもならないことは身をもって痛感しました。

 これじゃあ何のための離婚だか全くわかりません。

 何だか離婚で得をする誰かのために離婚したようで本当に不本意です。

 私は未だに、支援のための支援を正義とする某団体に不満を持っていますし、それに関わる制度にも疑問を感じています。

 だからこそ、離婚が意味のあったものになるように私が出来ることをしっかり前を見据えてやっていきたいと思っています。



私の学び


 今月は私がケアを出来るようになるための学びをするため、3カ月に一度の京都へ行ってきました。

 擬似的なグループワークのファシリテーターを体験させて貰えたりと、私の学びか着実に進んでいる事を感じることが出来て、たまらなく嬉しいです。

 もちろん毎月の学びの場へも顔を出して、自己と向き合うことも続けています。

 さらに最近の私の学びの場は、より実践の場へもステージを移しつつあり、職場やプライベートなどの生活の中でも、学んだ事を生かせている事を感じています。

 最近になって、新しい職場の限られた人には、私のこれまでの経緯や現在の状況を語るような場面が出て来ました。

 私は現在平社員ですから、関わる社員は、比較的若い年齢層の子が多く、その子達には私のこれまでの経緯は刺激的なようで、とても関心を持って聞いてくれます。

 特に若い子達はそうなのですが、私が私を語ることで、相手もまた自己を語り、職場では一切出すことの無い一面を見せてくれたりするようになりました。

 一見仕事とは関係の無いようなことですが、それが職場での信頼関係はより強固なものにしていることを感じています。

 その上で、私が前向きに仕事に取り組む姿勢をみて、私に好感を持ってくれる若い世代が多いようです。

 最近の上司の面談などでは若い社員が目標とする人として、同じ平社員の私の名前がよく上がって来ているようで、上司も困惑していました。笑

 私がここで得た信頼関係は、この後私が責任を持つ身分になったときに確実に生きてくることを感じているので、そんな意味でも私のしていることは意味を持っているのだろうと思います。

 そうやって、私がこれまで学んできた様々なことが実践の場で生かされて、私と関わる人が少しでも前向きになれて、更にそれが私の学びになり、私を確実に変化させているこの循環が、今はたまらなく嬉しいです。

 自己を回復させるためには、決して失った家族で無ければいけない理由はないんだと、身をもって実感しました。

 ただ、私の最終的な目的は、娘が抱えるであろう葛藤をケアすることには変わりないので、様々なことを多角的に挑戦していきたいです。



おわりに


 私は未だ、変化の途中にあります。

 変化の過程の中で様々な矛盾やつじつまの合わないこと、人から後ろ指さされるようなこともあると思います。

 しかしそれは自己の中の変化をもたらすために起きていることだと理解しているので、致し方ない事だと思います。

 私はこれまで、人の矛盾や理不尽さを突くような生き方をし、自己にもそれを求め苦しい生き方をしてきました。

 しかし本当に大切なのは、その心情を理解して貰えるようにしっかりと相手に伝えること、そして自らも、相手のそんなところを受容する事だと気付けました。

 これからも、もっと学びのスピードを上げて、自己の変化をすすめていきたいと思います。

ちょっとだけ進展

 先ほど少しだけ進展があったので書き記しておこうと思います。

 
 昼間に公衆電話からの着信が二度ほどありました。
 
 私は仕事で電話に出ることが出来なかったのですが、私はなんとなく、家を出てから一切の連絡を断っていた元妻からでは無いかと感じていました。
 
 夜になって再度掛かってきた電話にでると、やはり、もう1年以上声を聞いていない妻からの声でした。
 
 娘の養育費などの件で相手に伝えたいことなどあり、相手側の親族や共通の知り合いを通じてアプローチをしていたのですが、それの反応が返ってきたと言うわけです。
 
 紙のカサカサする音と共に一方的に文章を棒読みで読み上げる元妻。
 
 未だ葛藤の中にあるであろう妻がわざわざ私に電話をよこしてくれただけでも有難いことなので、私は相づちを打ってそれを聞くだけにしました。
 
 それでも、子供の福祉に理解が足りていない部分や、自己の価値観の投影による認知の歪みなどは感じられたので、モゴモゴと反論してしまっていたかもしれません。笑
 
 その内容については、ここに書くと色々特定されてしまいそうなのでここでは割愛させて頂きます。
 
 と、いうかあまりにも一方的な文章の棒読みだったので半分くらいしか記憶に残っていません。
 
 ただ、今まで書いた手紙の内容に対する返答なども文章に含まれていたので、手紙は届いていたんだと安心しました。
 
 これまでは、私にコントロールされる妻を見て、ただただ悲しかった自分からしたら、そんな形でもしっかりと意見を述べた元妻の姿勢が嬉しかったです。
 
 ですが、後に考えると未だ誰かのコントロールを受けての行動であったことには変わりないのだと感じる部分はあります。
 
 けれど、しっかりと私を批判できるようになった事は変化が生まれていることには変わりが無い事実ですので、前向きに受け止める事にしました。
 
 会うつもりは無いとか、一切連絡をとりあうつもりはないとか、養育費なんて要らないとか、あなたは矛盾しているとか、当てにしていないとか、頼るつもりもないとか、元妻からしたら私を批判したつもりなのかもしれないですが、私はその変化が嬉しかったです。
 
 家を出てから1年2カ月ぶりに元妻の声を聞けました。
 
 もう元妻には一切の未練はありませんが、元妻に対する償いや娘の福祉のためにも、今度は私が抱えた葛藤をケアできるだけのスキルを身につけて、いつか元妻と娘とコミュニケーションがとれるようになっていけたらなと思いました。
 
 葛藤が生まれるどころかほんの少しでも進展したこの状況が嬉しくてたまりません。
 
 これからも無理な行動をする事無く、必要なことを当たり前に働きかけて、一生かけてでも改善に向けた動きをしていこうと思いました。

久々に夢を見た。

ここ最近は、楽しみながらも日々の生活に手一杯になっていまい、こちらの活動が全く出来ていませんでした。

仕事が上手くいかないときにイラつく自分に気づき、そんな自分の怒りの感情を大切に思いながらも他の感じ方や表現の仕方は無いかと考えてみたり、シングルマザーをしている職場のバイトの方とお話しする機会があれば、自分の娘を想うきっかけになったりと、日々の慌ただしい生活の中でほんの少しだけ考える時間はあったのですが、私の中では、

「しっかり自分と向き合えてないなぁ。」

なんて感じていました。


そんな中、昨日の夜は珍しく夢を見たので、最近のことも交えて書いてみようと思います。




ここ最近は一切夢を見ることはなかったのですが、久しぶりに見た夢は元妻と娘に会えた夢でした。

最近になって人との会話の中で自分の離婚話や娘について話す機会が多かったのですが、そんな事から娘に対する想いが日々募っていたのかもしれません。

初めはおずおずと顔を出した元妻が会話を重ねる内にこの1年のことをポツリポツリと話しだし、私がそれを受容し、当時の私の気持ちやお互いのその後の行動などを語り合う内に、娘と私を会わせたくないと頑なだった態度がすこしずつ変化してゆき、ついには娘に会うことが出来た夢でした。

娘も最初は戸惑っていましたが、お互い少しずつ距離を縮めていき、最後は娘を抱き上げられるようになるまでになったところで夢は終了しました。



私は今、1年以上娘に会うことが出来ていません。
本当に会いたくて会いたくて仕方ありません。

けれど、会うためにこちらから働きかけ、調停を起こし、争いにすることは出来ますが、それを頑なに拒む元妻の元で暮らして居るであろう娘に与える悪影響を考えると、やはり私は争いにはしたくありません。

離婚は両親の問題であって娘には一切の責任はありません。

娘はただの被害者ですから、私と元妻の感情は抜きにして、離婚に伴う葛藤を少しでも軽減できるよう娘との関係を取り戻し、娘の人生にとって出来る限りのフォローアップをしていきたいなと考えています。



こんな事を人に話すと、「お前は娘に会うべきではない。」ととんでもなく暴力的な意見を言う人が思いのほか多い事に驚かされます。

そう言う人の中にも真意は様々あるようですが、その一つは私が娘に余計な葛藤を与えないようにと考えるように、「元妻が頑ななんだから、娘の葛藤を生まぬよう、近づくべきではない。」と言う意見です。

娘への配慮の感情が薄いなとは感じますが、これなら私もまだ理解できます。

しかし中には、「お前はそれだけのことをしてしまったんだから当然の報いだ。一生それを抱えて生きていくことがお前の償いなんだ。」なんて真剣な顔で言ってしまう人が男女問わず居るのです。

そんな価値観が社会に蔓延しているのかと思うと怖くて仕方ありません。

そりゃDVを始めとする離婚の問題も、それに伴う親子の断絶の問題も変わっていかないよなぁなんて思ってしまいます。

しかしそんな社会の価値観がズレているからといって、親子の関係を築けるよう私から元妻に強制力をもってコントロールするなんて事は出来ません。

私は、娘が両親の離婚による葛藤を出来るだけ軽減できるよう、元妻がこの事に気づいて元妻の態度が軟化してくれるにはどうしたら良いか考え、祈るだけです。

元妻の元に誰か素晴らしい援助者がついてくれていたら良いなぁと願うはがりです。

絶賛連勤中!


これまでのお堅い仕事から、ベンチャー企業の営業に転職してからまだ1ヶ月も経っていませんが、現在私は、毎日終電近くで帰宅の絶賛13連勤中です。

さすが出来て3年で全国に拠点を持って、年商50億になった会社だけはありますね。

民間企業の営業なら当然かもしれませんが、みんな凄く良く働きます。

それでも、私は今の状況がそんなに苦ではないです。

始めて間もないからって事もあるんでしょうが、むしろ今は今は楽しくてしょうがないです。

前の職場とは違い、上司になればなるほど仕事量と熱量が高いことが、素直に仕事を頑張る気持ちにさせてくれます。

確かに体力的に朝がツラいとか、洗濯がたまってしまうとか色々な問題はありますが、しっかり寝られて休みも多かった前職の方が、精神的な面からか、朝起きることが苦痛で苦痛で仕方ありませんでした。

今は年収が半分くらいになり、社会的地位は下がり、仕事量も増え、休みどころか寝る時間さえ確保が難しくなっている中でも遊びを忘れず、前向きにやれているのは、それなりに力がついてきた証拠かもしれません。

これは、元妻と娘が出て行って、自分と向き合うことが出来たことで、どんな環境でも悲観せずに前向きにやっていける力が付いたからなんだろうと勝手に解釈しています。

多分、これも自己肯定感の内の1つなんじゃないかなとおもいます。
 
本当に元妻と娘に心から感謝です。

おかげでとても前向きに楽しみながら生きていくことが出来るようになりましたと、伝えたくて仕方ありません。

これから自分がどうなっていくか楽しみです。

自己肯定感と共依存について。



今回は、以前の記事に出て来た、自己肯定感と共依存について書いてみようと思います。

自己肯定感と共依存については、ネットで調べれば、いくらでも解説などを見ることが出来ますが、自分の抱えてる問題には、この解説は必要不可欠なんで、あらためて調べて、自分なりまとめてみました。 





自己肯定感とは?


自己肯定感ってそもそもなんだろうって事なんですが、調べてみると、読んで字のごとく、自分を自分で肯定できる、する感覚、感情ということらしいです。 

それでもよくわかんないので辞書を引くと、「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在だ」と思える心の状態を言うようです。

対義語は、自己否定感。 





自己肯定感が高い人、低い人


自己肯定感が高い人、低い人はどんな人なのかとまとめると 


・自己肯定感が低い人 

自分に自信が持てず、他人にどう見られているか気になり、他人の言動に過敏に反応してしまう。 


・自己肯定感が高い人

心の受容が大きく、少々のことではめげず、意欲的に人間関係を築くことができる。 

自分の行動や意見を自信をもって行うことが出来、自分なりの根拠や信念に基づいた行動等がとれる。 

となるそうです。






なぜ自己肯定感に差が出るのか 


調べてみると、自己肯定感の高い、低いってのは幼少期の生活、教育環境によって大きく左右されると考えられていているようです。

※どうしたら自己肯定感が高く育つかについては発達心理で様々書かれているので興味があったら調べてみてください。 

そして、より生きていきやすいのは、肯定感の高い人で、大きな支障を抱えることになる可能性のあるのは、自己肯定感の低い人らしく、低い人は、場合によっては、大変な生き辛さを抱えて生きていく可能性があるらしい。 

さらに、自己肯定感が低い人は、自分が生き辛さを持っていることすら理解していなかったり、何となく生き辛さを感じていても、その原因が自己肯定感に関係しているとは思ってもいない方がたくさん居るようです。 



自己肯定感が低い人の特徴 


自己肯定感が低い人は以下の特徴があるらしいです。 

 ・物事をすぐに白黒断定しやすい。 
 ・自分を責めやすい。 
 ・いつも何かを心配している。 
 ・自分をコントロールしようとする人に対して従順である。(あるいはひどく攻撃的である) 
 ・欠点を指摘されたときに、自分の自我を守るため攻撃的になる。(あるいは、自分を責めすぎる) 
 ・他人を尊重できない。 
 ・余裕がないときにキレやすい。(あるいは、パニックになる) 
 ・自信がなく、一人で生きていくことを不安がる。 
 ・変化に弱く情緒的不安定に陥りやすい。 

って事なんですが、 
 ・ある人は自分の意志が持てずに人の意見に流されることで自己を保つ人になったり。
 
 ・ある人は自分の意志が正しいのか常に不安で仕方ないので、自分の意見を無理にでも押し通して何かにすがることで自己を保つ人になったり。 

 ・自分より優れている人と自分を比べて劣等感に陥る人が居たり。 

 ・自分より劣っている人を見下して自我を保とうとする人がいたり。 

なんてように、自己肯定感が低い人はこんな人なんだって事は言い切れないし、人それぞれ表に出る性格は様々なようです。

いつもおおらかで、人に合わせるのが得意って人も、実は自分の意見を持てない、自己肯定感が低い人だったり、 一見自信満々で攻撃的なオラオラ野郎も、それは自分に自信を持てないからこその裏返しで、実は不安で仕方のない、自己肯定感の低い人の場合もあるって事なんですね。 



自己肯定感が低い人の共通点


そんな多種多様な自己肯定感が低い人に共通している事は、依存がちって事。 

人によって依存するものや人も様々だから、自分の評価を他人に依存していたり、 恋愛依存だったり、対人依存だったり、アルコールに依存だったり。 

逆に、スポーツや、早起きや、仕事など、いい事に依存することだってあるから、依存は一概に悪いとは言えないけど、これが対人間になった時に共依存に繋がってしまう危険性がある、又は共依存しているから、自己肯定感が低い人になってしまう、なんて事になるらしいです。


 


共依存ってなに? 


自己肯定感が低い人⇔共依存に陥りやすい

なんて事があるらしいんだけども、共依存って何だって事ですよね。 

元々共依存というものは、アルコール依存者の治療から見つかったそうです。
 
治療が上手く行かなかったケースの内、依存を助長する存在が周囲にいる事が発見されて、依存者とそれを助長する人との関係が共依存と言われるようになったそうです。 

わかりやすく書くと、共依存とは、人間関係そのものに依存するという依存症らしいです。 



共依存の人ってどんな人? 


共依存の人は、自分自身を大切にしたり自分自身の問題に向き合うよりも、「身近な他人」(配偶者、親族、恋人、友人)の問題ばかりに気を向けてその問題の後始末に夢中になる人。 

そんな人たちは、「身近な他人」の取らなかった責任を一生懸命代わりにとり、その結果、現在の困った状況を、「身近な他人」が自力で解決する機会を与えず、困った状況をそのまま続けるか、さらに困った状況に陥っていく。 

「身近な他人」は、大小様々な問題(アルコール依存や買い物中毒、注意力が無い、部屋を片付けられない等)のトラブルなどを抱えていて、問題を抱えている人達の側には、共依存者かならずといっていいほどいると言われている。 

そんな共依存者が問題の後始末を一生懸命してくれるので、「困った人本人」は「困った状況」が「なんだかんだ言ってもなんとかなる」と無意識で感じていて、問題を解決せずにほったらかしにし、悪化させる。 

そして実際には、どちらかだけが問題を抱えているケースよりも、どちらも何らかの問題を抱えているケースが多く、その問題と共依存が複雑に絡み合っている場合が殆どであり、自己が問題を抱えている、共依存であると認識していない場合が大半を占めるらしい。 



共依存者の特徴 


共依存の人の特徴もまた、人それぞれ違うようです。 

 ・自らを犠牲にして他人を助け、世話するが、相手からの感謝を無意識に期待している。 

 ・他人の行動、感情、考え方・状況・結果を変えようとコントロールする 
  
 ・依存心が強く、一人でやっていけるという自信がない 

 ・考え方、視野がせまい。社会・地域・自然などへの関心・貢献が薄い 

 ・他人の目や意見を気にして、真実を隠して表面は何でもないように振舞う。 

 ・コミュニケーションの技術に欠け、欲求をはっきり言えない。 

 ・他人の問題や他人の愚痴ばかり話し、自分自身を主にした意見を言えない。 

 ・他人の問題にお節介にも入り込み、他人が落ち込むと、自分も滅入ってしまったり、他人の気分を変えようと必死になったりする。 
  
 ・自分と他人は考え方も感じ方も感情も違う個別の人間であるという自覚がない。 

 ・他人のために行動しているのに報われないとなると、怒りや恨みがたまってくるのは当たり前のことだが、自分自身でその怒りを否定し、適切な怒りの表現ができない。 
 ※急に爆発させたり、八つ当たりしたり、あるいは怒りを「恐怖」にすりかえて怒りを感じないようにする。 

 ・今すぐ良い結果が出ないと気が済まず、せかせか動き回ったり余計な心配に気をもむ。 

 ・他人の行動を長い目で見守ることができず、自分が今すぐコントロールしようとする。 

 ・相手に問題があるのは、自分が何か悪い事をしたかのように思い込み、自分が努力すれば、また自分の欠点を直せば相手が良くなるだろう、変わるだろうと必死になる。 

 ・疲れて相手から離れようと考えると「自分がいなければ」とひどい罪の意識に囚われる。 

 ・黒白はっきりしすぎたり、自分が正しくて他人がまったく間違っているとか、または反対に全部自分のせいだと思い込んでしまう。 

 ・いったん何かをやりだすと限度を知らず、または物事を1つも完成させることができずに、途中ですべて投げ出してしまう。 

 ・相手が問題を起こすと憤慨し嘆くが、少し調子がいいと苦しかったことを忘れて相手を本当はとても良い人だと思ってすぐ許してしまう。 

 ・相手を救おうとあがき、上手くいかないと相手を責め、それもうまくいかないと、相手のせいで自分はこんなにみじめだと被害者意識にとりつかれる。 


ずいぶん長くなりましたが、これって自己肯定感が低い人と一緒で、共依存な人はこんな人だ。
なんて事はなく、人それぞれ、表に出る性格は様々なようです。 



共依存に人に共通していること 


そして、共依存の人に共通して言えるのは、自分に自信がないので他人に幸せにしてもらおうと思っていたり、自分の人生の目的や自分はいったい誰なのかがはっきりせず、自分を大切にできない、って事で、すべての共依存の問題は、ここから始まっていると言われているらしいです。 

でもこれって自己肯定感が低い人の事だってお気づきですか? 

 共依存⇔事項肯定感が低い 
って事はここから言えるんですね。 

自分がここまで理解するのに何ヶ月もかかりました。。。笑 



まとめ 


ずいぶん長くなりましたが、こうやってまとめると、共依存者の特徴と自己肯定感の低い人の特徴が一致するのがわかると思います。 
  
本当はもっと詳しく書きたかったんだけど、書こうとすると、この何倍も長くなりますので、この程度で。笑 


今自分は、この自己肯定感の低さからくる問題を抱えているんですが、問題解決の対処法はちゃんとあります。 
  
ただ、その為にはちゃんと気づいて自分と向き合う事が必要で、それは辛いことや苦しいことに向き合うことでもあり、エネルギーが必要なことです。 

だから諦めちゃう人や、そもそも気づきもしない人がほとんだだって事実もあるんだけど、問題を抱えている人は、こんな良くないこと、そのままにしないでちゃんと気づいて欲しいなって思います。 


もし、これを見て生きづらさを感じている人がいたら、自分のことを人のせいにしてないで、今からでも遅くないから見つめ直してみませんか? 
  
すげー大変ですけどね。笑 

春ですね


先日、新しい職場近くの桜の木が、つぼみでうっすら色づいていることに気がつきました。

まだ寒い日が続いていますが、春が近づいてきてることを感じて、元妻と娘が出て行ってもう1年がたったのかぁなんて、色々思い返したんで、書いてみる事にします。



1年前の私は、出て行った元妻と娘がシェルターに入ったと知らされ、それが原因で仕事も通常業務から外されており、今まで築き上げたものを一瞬にして全て失ったような絶望感に包まれていました。

そんな中、自宅近くの土手の桜並木は満開で、そこを通りかかると訪れた家族連れの花見客が嫌でも目に入り、それを見ることが、寂しくて悲しくて悔しくて、身を切られるように苦しかったことを思い出しました。

あれから1年たって、環境も心境もこんなにも様変わりするとは夢にも思いませんでした。

これからも、良いことも悪いことも色んな事があるんだろうけど、これからの人生、無駄にすること無く楽しんで生きていきたいと思ってます。

仕事は思うように突き抜けることが出来ていませんが、前向きな気持ちを失わないようにやっていきたいと思ってます。