ふと思ったこと
書きたいことをダラダラ書いてみることにする。
最近、子供と関わる機会が増えて来ている。
当然娘には会えていないので、他人の子との関わりばかりだが、例え自分の娘に対してでなくても、子供と遊ぶ楽しさや喜びに気づく事は出来る。
だから、私は積極的に関わりが持てるように心がけている。
そして、関われば関わるほど気づくことは、私がいかに自分の娘と接していなかったかということ。
それと同時に、その楽しさや喜びを知れば知るほど、自らの娘に対して「申し訳なかった」との思いが募る。
三船美佳の件もそうだけれども、父子を断絶する母親が社会的に干される時代になってきた。
この件を自らに当てはめるつもりはさらさら無いが、いずれにせよ親のエゴで子供の権利を奪うことはとても悲しいことだと感じる。
しかし不安をあおって良いようにコントロールする支援(そこにお金や利権が多分に含まれている)の実情や、周囲の人間を見れば、元妻がそのような心情になるのもわからないでも無いし、そもそも、自らが行ったことでこうなった側面が強いこともよくわかる。
さらに、何度か書いていることだが、 私は 父子の完全断絶をされたことによって、考えの変化や回復の早さがあったと実感しているのも事実。
その点については本当にありがたい状況だった。
その分母子という所で、離れることの無い関係によって、過去の消化や気付き、変化という点では私よりはるかに難しい状況にあるのだと感じている。
だからこそ未だ私を責めることでしか自己を保てない状況にあるのも当然と言えば当然のこと。
現在の元妻のことはあまりわからないけれども、少なからず、人づてに聞く元妻の情況はそんな情況だから心が痛む。
だからこそ元妻に余計な葛藤を生まないためにも、私は娘には無理に会わないと決めているわけだが、だからといって大人のエゴで子供の権利を奪うことは暴力以外の何物でもないと私は思う。
母子の関係を考えれば、無理に会わせることでは無いのだが、大人の至らなさで子供が犠牲になっているとの見方は 避けられない。
それはもちろん私自身を含めての話なので、この事で私は自己を正当化して
「子供に会わせろ」
と声を上げるつもりは無い。
けれども、
「私は娘に会いたいんだ」
という気持ちがあるんだということは、声に出し続けるつもりだ。
それは今後私が家庭を築こうが、子供が出来ようが、変わることはない気持ちだ。
「母子と父子では違う」
とか
「他で子供が出来たらそんな事忘れる」
なんて差別的だったり、暴力的だったりする意見を押し付けられて傷ついた事もあるが、それこそ大人のエゴでしかない。
歪みが大きくなった社会的価値観に囚われた考え方と言って差し支えないと思うが、私はそんな社会的価値観や、自分が抱えた問題を娘に連鎖させたくない。
だから、いつか会える娘が問題を抱えているとしたら、そこに手をさしのべるスキルを身につけて行くための学びは今後も続けていく。
この辺りのことは、当事者のみならず、発達心理学を少しでも触れたことある、保育、教育に携わる人ならば少しは理解して貰える所かと思う。
いずれにせよ、今後も娘に会いたい気持ちに変わりは無いし、その気持ちは声に出し続けるつもりなので、私も社会的価値観の中に生きる者として、その言葉に説得力を持たせるためにも、しっかりと地に足着けて、社会的にも成功して、私の声をより多くの人に届けていきたい。
それが出来るようにわざわざ職を変えたんだから。